※記事中に、少し生々しい表現が含まれていますのでお読みになる際はご注意ください。
鬼手仏心という言葉をご存じでしょうか。
医療の場で、特に外科医の方に対して使われる表現だそうです。
外科医は手術の時に患者の体にメスを入れます。人の体に刃物を刺す、それはまるで鬼の所業のような恐ろしい行為ですが、しかしそれをおこなっている外科医の心中にはこの患者を助けたいという仏の心があるのだという意味ですね。
次の「遺品整理士はミタ」の記事にはどんなことを書こうかと思っていた時、この鬼手仏心の言葉を見かけて、これは特殊清掃にも通じるところがあるのではないかと感じたのです。
特殊清掃における鬼手
特殊清掃においての鬼手とは、ご遺体の発見現場における清掃作業につながります。
ベッドの上、床の上、トイレの中からお風呂の中まで、ご遺体が発見される場所は様々ですが、どの場所にも共通するのは「本当にここに人がいたのか」という実感からくる恐怖の感情です。
もちろん私たちが特殊清掃のため現場に立ち入る時には、ご遺体はすでに警察により運び出されているわけですが、それでも亡くなっていた場所にはその人の形を示すかのように体液が滲み、蛆虫などが発生しているわけです。
ご遺体そのものはなくても、「ここで亡くなっていた」ということがありありとわかる光景には、いつもやりきれない複雑な気持ちとともに「死」というものに対する恐怖心をも喚起させられます。
しかしそれらの感情をこらえて清掃作業をおこなわなければならない。
それは、体液の除去や蛆虫などの駆除だけでなく、腐敗によりご遺体から離れてしまった頭髪や歯、場合によっては内臓の一部かと思うようなものまで拾い上げることもあります。
特殊清掃作業を進めるにおいては上述のような感情に囚われてしまっては時間が過ぎるばかりですので、その気持ちを殺して淡々と清掃・片づけをおこなっていくのです。
「かつて人だったもの」を前に、無機質に淡々と作業を進めていく。これが、特殊清掃における「鬼手」にあたるのではないかと考えました。
特殊清掃における仏心
特殊清掃における仏心とは、先ほども触れたような故人に対するやりきれない思いと、そのご遺族への感情です。
身寄りがなく孤独死してしまった、セルフネグレクトのような状態でごみ屋敷になってしまった家の中で亡くなっていた、など状況は様々ですが、「どうしてこんなことになってしまったのだろうか」との思いは、ご遺族は当然抱かれる感情として、私たちの胸にもまた込み上げてくるものです。
清掃作業自体は淡々と進めつつも、しかし故人の生きた証を残す方法はないか、ご遺族のショックを少しでも和らげるために何かできないか、といったことは作業中常に頭から離れません。
このような気持ちを「仏心」と呼ぶことは言い過ぎでしょうか。
正反対の現場に共通する「人」への想い
「鬼手仏心」の言葉がよく使われる医療の場は人を生かすための仕事をおこなう現場ですが、特殊清掃の現場は人が亡くなった後におこなう仕事であり、性質としては正反対のようにも見えます。
しかし別の見方で、両者ともに「人の命にかかわっている」のだと考えれば、正反対ではなくむしろ同質の仕事であるとも言えるでしょう。
だからこそ、直接おこなっている作業の内容は体に刃物を刺したり体の一部を拾い上げたり除去したりというように「モノであるかのように扱う」ことをしながらも、実際の心のうちにあるのは「この人の心や体を何とかしてあげたい」という愛情であるという「鬼手仏心」の側面がそれぞれにあるのではないか。そのように思えてならないのです。
だからといって何かが変わるわけではないのですが、ふとした気づきを広げて考えてみたときに、そういう見方もできるのではないかと思いました。
とはいえ、何がどうであったとしても、特殊清掃サービスや遺品整理サービスに対する私たちの姿勢は何も変わりません。
法に触れずにこころに触れること。
ご遺族に対しても故人に対しても、ただそれだけを目指しています。